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学校林について1(南高学校林100年の歩みより)

100年の軌跡

1 学校長山田幸太郎先生

  学校林を語るにあたっては、その生みの親である当時の学校長、山田幸太郎先生の人となりから始めなければならない。

  明治4年、幸太郎は石川県金沢市で父・丹治、母・トヨの長男として生まれた。父は金沢藩士であったが、明治維新の廃藩置県によって禄を離れており、明治13年に一家は北海道に渡り、山鼻に入植した。

  貧しい暮しであったが、向学心の強い幸太郎は豊振夜学校を経て、札幌農学校予科に入学した。明治23年に予科を卒業して本科に進み、明治27年7月に本科を卒業した。幸太郎は卒業生総代であった。

  その後1年半ほど、校費研究生となって東京に遊学する。農学者の道を志し、勉学に励んだのであったが、明治26年に父・丹治を亡くしていた。一家(母と3人の弟妹がいた)の大黒柱となっていた幸太郎は、明治28年6月に研究生を辞退し、教員の道を選ぶ決断をした。教員免許の申請をし、同年7月に尋常中学校農業科と尋常中学校高等女学校化学科博物(植物・動物)科の教員免許状を取得した。そして翌年の明治29年2月、香川県立尋常中学校教諭として赴任している。

  このように、教職への道は必ずしも一直線ではなかった。また学者の道を完全にあきらめていたわけではなく、教員生活のかたわら農学雑誌に論文を掲載してもいたのである。だが、そうした幸太郎の気持ちを変える出来事があった。

  ある時、林業関係の官庁に有望なポストがあると誘われ、自分の専門分野でもあったので、大いに心を動かされたという。恩師である新渡戸稲造(幸太郎は札幌農学校時代に新渡戸の薫陶を受け、深く尊敬していた)が四国を訪れた時に相談したところ、「木を育てるのは立派な仕事であるが、人を育てるのはほかにくらべることのできない立派で楽しいことではないか」と感想をもらされ、この言葉が教職への決意を固めることになったという。「造林育人」の念は既にこの時、幸太郎青年の胸に胚胎していたのかもしれない。

  最初の任地から、香川県立丸亀中学校教諭を経て、福岡県立中学伝習館教諭、同館館長心得、愛媛県立大州中学校校長を歴任した。そして明治41年10月、北海道庁立札幌中学校校長として赴任する。

  この赴任に先だって、札幌中学校に一つの「事件」があった。明治41年3月、当時の尾原亮太郎校長の排斥を求めて、4年生が「同盟休校」(ストライキ)を行ったことである。背景には、前月に2年生が行った集会に対する処分の不明瞭さや、教員間における校長派、非校長派の対立への批判などがあったといわれる。このことは、当時の新聞に大きく取り上げられて議論を呼び、尾原校長は他校へ転出となった。4年生は卒業生のとりなしもあって休校を解き、のちに停学処分を受けている。

  このような背景のもと、10月に山田校長は着任したのであった。大柄で豪傑型だった前任者とは違って、白皙痩躯。体も小さく、声も小さい。しかし、その端正なフロックコート姿にじみ出る威厳と慈愛とを、同時に感じた生徒たちは多かった。

  明治42年3月発行の『学友会雑誌第19号』に、山田校長が寄せた「至誠」という一文には、「至誠の人は一毫の雑念なく迷ひなく疑ひなく又欺くことなし」とあり、同時に「誠実誠意を以て事を処する能はずんば、たとへ万巻の書を読破し、身百芸に通ずるも、人を害し、己を損ふの兇器たらむのみ」と記している。山田校長その人が、まさしく至誠の人であったと、教えを受けた多くの生徒たちが回顧している。

  毎朝の朝礼での短い訓話も、含蓄の深い話が多く、生徒たちに深い印象を残している。たとえば大正13年の夏のことだったが、大変穏やかな口調で「近頃どこからともなく桜鳥の群れが現れて、学校近くの桜桃園を荒らすので、園主たちが大変困っていると聞いた。もし諸君の中でこうした桜鳥を見つけたら、石を放るなりして追い払って、百姓たちを助けてやってほしい」と語りかけた。むろん、農園のサクランボを食い荒らしていたのは鳥ではなく、生徒たちであったろう。その翌日から、桜桃荒らしはぴたりとやんだという。

  このエピソードを、当時の生徒の一人はその後数十年を経て、末期の病床で懐かしく思い出し、「我々は山田先生のように、大きな心の持ち主から教えを受けることができたことは本当に幸福だったと思う」と、述べたという。

  札幌中学を名門校たらしめたのは、このような大きな心の持ち主が、明治41年の着任から昭和12年の退職にいたるまで、28年間あまり、校長として生徒の人格の陶冶に当たったからにほかならない。

  昭和8年10月19日、在職25年を記念して「山田幸太郎先生之像」が、同窓生の寄贈により校庭の一角に建てられた。この胸像は昭和18年6月、戦時における金属回収のため接収されたが、昭和25年7月に再び同じ作者の諏訪頼雄(彫刻者名与里於、中18期)によって胸像が作られた。現在は4代目校舎の校門を入った左側に建ち、今なお「質実剛健、堅忍不抜、自由闊達」の精神を見守っている。

2 学校林の誕生へ

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