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学校林について2(南高学校林100年の歩みより)

100年の軌跡

2 学校林の誕生

  山田校長が着任してから3年後の明治44年、時の皇太子(のちの大正天皇)による北海道行啓が行われた。その際、札幌中学校にも来校されるという栄誉を賜ることになった。

  本校では頻繁に職員会を開き、慎重に準備を進めた。同時に山田校長はこの光栄を永く後世に伝えるために、記念事業をおこすことを職員会に提起し、明治44年2月9日の職員会で植林事業を行うことを決定した。

  山田校長は次のような遠大な構想のもとで、学校林を発意した。

  1. 年とともに成長発展するものであること
  2. 開拓民の安住、永久土着の精神を涵養する
    *当時の道民は移住後に一攫千金をもくろみ、故郷に錦を飾ろうという風潮が強かった。そのため住居は一時的で簡易、耐寒性に欠けたものが多かった。山田校長はこのようなことでは、北海道の発展はないと常に憂慮していた。
  3. 生徒の修練道場として、将来この中に学園を建設する
  4. 林産物の増産を図り、学友会基金の蓄積をはかる

  その後、山田校長自ら道庁、札幌市庁と数回にわたって交渉にあたり、当時の豊平町大字月寒村厚別南通に適当なる未開地があることを確認した。それは明治初期に大山火事があり、焼け山と呼ばれていた場所で、当時はほとんど木がなかった。

  2月18日、この構想を学友会にはかり、総会で論議を尽くした後、多数決で決定することになった。総会での議論は白熱し、当時5年生だった室谷慶一氏(中16期)は、「幹事長司会による可否の論議は容易に尽くることなく、そのまま夜に入り、電灯設備のない議場は賛否の採決を定め難く、一計を案じて不賛成者を隣の室に移動させて、辛くも賛成者多数を確認し得た」と述懐している。

  早くも翌日19日に、山田校長以下5名で現地踏査を行った。もちろん、雪深い季節であり、馬橇で厚別小学校まで行き、そこから爪(つま)篭(ご)(雪国で使うワラぐつ)をはいて丘陵を踏破したという。学校林実現にかける校長の情熱が伝わってくる。

  2月27日、河島醇道庁長官に未開地売払願いおよび起業方法書を提出し、10月4日、99町6畝24歩の土地を148円60銭で購入する許可を得た。

  10月22日、山田校長以下8名は再度実地踏査に赴き、境界線の確認をした。

  かくしてすべての準備を整え、10月26日、職員生徒一同による全校学校林遠足を実施した。午前6時に草鞋履きで本校を出発したが、あいにくの時雨模様で、雨に打たれながらの行軍であった。

  10時半に現地に到着。上級生の一団が北部の高台に登り、「行啓記念植林用地 庁立札幌中学校学友会」の標木を設立した。校庭から持ってきたアカマツとカラマツの苗木8本を植樹し、そのかたわらに「東宮殿下行啓記念之松」と記した標木を建てた。

  また、全生徒を十数隊に分け、境界をたどって境界標を建てた。その様子は「谷を下り峰をよじ、荊蒜を排し、苦心惨憺して境界線の樹立に奔走」(学友会記念号)であったとある。

  昼食には紅白の餅が配られ、午後1時に帰途についた。豊平川畔で校歌を斉唱し、山田校長の音頭で札幌中学校万歳を三唱して、解散した。往復9里(36キロ)の一大遠征であった。

  この経緯を見ると、山田校長の意図通りに、いわば順調にことが進んだと思われるかもしれない。しかし、明治44年5月4日、山田校長は夫人茂野を結核で亡くしている。まだ30歳の若さであった。あとには7歳の長男を筆頭に、3人の幼子が残された。5月5日には校長夫人の葬儀が行われ、生徒全員が参列している。

  このような中にも、8月26日の皇太子来校を滞りなく終え、学校林の実現に静かな情熱を傾けていたのである。その胸中にはどのような思いがあったか、余人に推し量ることはできないものがあろう。

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