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学校林について4(南高学校林100年の歩みより)

100年の軌跡

4 学校林の取り組み 戦前

  前述したように、学校林の地は明治初年に大山火事があり、明治44年に払い下げを受けたときには、焼け山と呼ばれていたような荒地であった。翌明治45(大正元)年から、敷地を十数区画に分けて、毎年1区画ずつ計画的にカラマツの植林を行った。

  大正2年2月15日の学友会総会で、植林部細則を決定するとともに、基本金で有価証券購入を決定した。この時代には、軽川造林会社の手による植栽を行っていた。

  大正15年に第一次造林を終了したが、前述したように同年10ha余の隣接地の払い下げを受けたので、昭和2、3年にその地域にもカラマツを植林し、結果的に昭和3年に第一次植林を完了した。この間、東北隅に試験天然林を残したが、これは教育用にとの配慮であった。

  毎年、学校林遠足が行われ、当日は午前5時集合、徒歩で学校林に向かい、植樹、下草刈りなどを行った。またウサギ狩りもし、作業後にはウサギ汁(大半は豚肉)を楽しんだという。

  『林柳津(竹治郎)先生筆による大正後期~昭和前期の学校林の絵画』という資料には、学校林の区画ごとに「T1(大正元年) 6町歩 18,000本」というように、年ごとの植樹数本が記されている。この資料によれば、6町歩ないし5町歩(まれに10町歩)を1区画とし、毎年おおむね18,000本か15,000本かのどちらかを植樹している。大正元年から昭和4年までで学校林全体の植林が終わり、合計297,204本のカラマツを植えたことになる。

  一方、伊藤大亮教諭による『植林地模型図』によれば、区画や植林年、本数が異なっている。その合計だけを掲げると、233,610本である。ただしこの数字には、昭和10・11年、昭和12・13年の植樹も含まれている。今となっては、正確な本数は知るよしもないが、昭和3年までに20万本余りの植樹が行われたと考えてよいのではないだろうか。

  昭和3年、第1回間伐が行われた。間伐するためにはあらかじめ選木することが必要で、この時は伊藤大亮教諭と道庁の調査官宮脇恒氏(一中23期)が、現地に数日泊まりこんで、その任を果たしたという。その際、育林生産、販売について、職員のみでは種々無理が生じる恐れがあるため、同窓会と職員から構成する植林地委員会を組織し、学校林全般の経営管理をすることとなった。以後、植林の実施、伐採、調査、売却方法などの決定は、この植林地委員会が行うことになった。以後、植林の実施、伐採、調査、売却方法などの決定は、この植林地委員会が行うことになった。

  昭和8年から第二次植林が始まった。これ以降カラマツに加え、トドマツを植林している。昭和13年7月22日には、時の道庁長官石黒英彦氏が学校林を視察し、笹刈りをする生徒たちを激励している。

  昭和10年代に入ると、世相は戦時下の様相をいっそう色濃くし、それは学校生活にも及んだ。昭和15年7月には、職員と4、5年生が天然林の一部の雑木を伐採し、炭焼窯も作って、164表の木炭を自力で生産した。この木炭は学校用に使われた。

  木炭生産だけでなく、焚きつけ用の柴刈りも行った。昭和19年5月26日の柴取り遠足を回想した横田庄八元教頭によれば、多くの学年の生徒たちは勤労動員され、学校に残っていたのは1年生全員と若干の残留者だけだったらしい。学校から徒歩で学校林に到着したのが正午近くで、昼食後、それぞれの体力に合わせてカラマツの枯れ枝を集めて、手ごろな荷物を作った。

  帰りには足を引きずるものも出て、疲れ切って荷物を放棄するものもあったが、たいていは荷物を小さくしてでも持ち帰った。途中の寺に預けて帰校し、翌日用務員のおじさんに荷車で運んでもらった者もあったという。まだ体力の備わらない1年生にとって疲労感は大きかったが、翌日は何事もなかったかのように学業に励んだ。

  また、カラマツの間伐材を生徒たちが学校まで担いで運び、校庭に作る防空壕などの支柱としたこともあった。これは昭和15年3月109本、昭和16年9月100本、昭和18年10月90本、昭和19年9月90本となっている。

  最初の植林から30年を経て、ようやく育ちかけた学校林を大きく変えたのは、戦争末期のカラマツの供出であった。カラマツはねじれ、節などが多いが、強度は高い。炭鉱の坑道の坑木として適していたため、石炭増産を急ぐ国策に従って、学校林のカラマツは表のように伐採された。植栽してから10年未満のものまでが供出されてしまい、山は13haのトドマツ、12haのカラマツ、若干の雑木と、一面の笹薮に変わり果てた。
 

伐採年月 植栽年 売却価格
昭和11年1月 大正2・ 3年 4,605円
18・ 1月 4・ 5年 4,605円
20・ 5月 8~13年 20,107円
21・11月 8~10年 51,919円


 戦前の学校林を語る上で、欠かせない人々が多数いるが、その一人が伊藤豊次氏(一中16期)である。氏は伊藤組二代目として活躍したが、その傍ら折に触れて学校林を見回った。戦後、財団法人への移行も、伊藤氏の熱意によるところが大きかった。

  また北大から招いた伊藤大亮教諭は、大正13年から昭和17年までの20年間近く、学校林の育成に心魂を傾けた。昭和4、5年の8月には、夏休みを利用して生徒有志とともに山小屋に泊まりこんで測量し、前述のような見事な学校林の模型を制作している。伊藤教諭は野球部の監督として、甲子園出場を果たした名宰領でもあった。

  大正14年から昭和33年まで在籍した井上藤二教諭も、伊藤大亮教諭とともに学校林に精魂を傾けた一人である。伊藤教諭が昭和17年に美幌農林学校に転勤になった後は、諸事を一手に引き受け、猛吹雪の中での毎木(まいぼく)調査(ちょうさ)(個々の木について種類や大きさを記録)など、時には命がけで学校林事業に従事した。戦争末期や昭和21年の伐採・売却においては、その収入が植林に還元されず、職を賭して当時の校長と議論したという逸話も残っている。

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1 金融機関名 北海道銀行
2 支店名 行啓通支店
3 支店コード 103
4 口座番号 0158575
5 口座名義 一般財団法人北海道札幌南高等学校林理事長秋山孝二
6 口座名義(カナ)
ザイ)ホッカイドウサッポロミナミコウトウガッコウリンリジチョウアキヤマコウジ

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